新田次郎(にった・じろう)

写真提供:文藝春秋
写真提供:文藝春秋

1912(明治45)年、長野県生まれ。中央気象台(現・気象庁)勤務のかたわら小説を執筆。1956年『強力伝』にて直木賞受賞。徹底した現地取材や専門的な知識に裏打ちされた作品は読者の圧倒的な支持を得た。映画化された『八甲田山死の彷徨』や『劔岳 点の記』などで山岳小説という分野を切り拓いたほか、後年は『武田信玄』『武田勝頼』など歴史小説でも大きな足跡を残す。1980(昭和55)年逝去。

略年譜

明治45年(1912) 6月6日、長野県上諏訪町(現在の諏訪市)大字上諏訪字角間新田で、五男四女の次男として生まれる。本名藤原寛人。新田の次男坊だったので、のちにペンネームを新田次郎とした。
昭和7年(1932) 中央気象台(現在の気象庁)に就職。昭和12年まで富士山観測所に勤務する。
昭和14年(1939) 両角ていと結婚。
昭和18年(1943)

満州国(現在の中国東北部)観象台に転職。

昭和21年(1946)

10月 満州から胡蘆島を経て帰国。

昭和24年(1949)

5月 妻ていが、引き揚げの記録を『流れる星は生きている』と題して刊行する。

昭和26年(1951)

『流れる星は生きている』がベストセラーになったことに刺激され、「強力伝」をサンデー毎日大衆文芸に応募、現代の部一等に入選する。

昭和30年(1955)

9月 処女短篇集『強力伝』を刊行。

昭和31年(1956)

2月 『強力伝』によって第34回直木賞を受賞。

昭和34年(1959)

気象庁測器課勤務の傍ら、山岳小説、推理小説を中心に旺盛な執筆活動を展開する。

昭和36年(1961)

7月半ばより3ヵ月、ヨーロッパの気象測器調査と取材を兼ねて、スイス、フランス、ドイツ、イタリア、イギリスを回る。

昭和38年(1963)

富士山気象レーダー建設という大仕事の責任者となる。

昭和41年(1966)

3月 気象庁を退職、筆一本の生活に入る。

画像:自宅でくつろぐ新田次郎
自宅でくつろぐ新田次郎。中央は妻『流れる星は生きている』の藤原てい、右は次男『国家の品格』の藤原正彦。 写真提供:文藝春秋
昭和49年(1974)

3月 「武田信玄、ならびに一連の山岳小説に対して」第8回吉川英治文学賞を受賞する。
6月から「新田次郎全集 全22巻」(新潮社)の刊行が始まる。

昭和52年(1977)

『アラスカ物語』『八甲田山』が映画化される。特に「八甲田山」は記録的な観客動員で社会的に話題を集める。

昭和54年(1979)

日本文学振興会の「直木三十五賞」の選考委員になる。

昭和55年(1980)

2月15日、東京都吉祥寺の自宅で心筋梗塞のため急逝。享年67歳。
菩提寺である長野県諏訪市の正願寺にある自然石の墓には「春風や次郎の夢のまだつづく」と刻まれている。またスイスのアイガー山麓クライネ・シャイデック駅近くの丘の記念墓には「アルプスを愛した日本の作家 新田次郎ここに眠る」とある。こちらには遺品の万年筆や取材ノートが納められている。

画像:菩提寺である長野県諏訪市の正願寺にある自然石の墓
昭和56年(1981)

2月 「財団法人新田次郎記念会」発足。「新田次郎文学賞」の贈呈と、僻地気象台への図書寄贈を二本柱とした活動が始まる。記念会は平成24年(2012年)、公益財団法人に移行した。

昭和57年(1982)

9月 第1回新田次郎文学賞の授賞式を挙行する。以降令和6年(2024年)現在まで43回にわたり53人の受賞者を送り出してきた。